2009年7月16日

トリュフの生産の方法

長らく謎だったトリュフの栽培方法は、ジャン・アンテルム・ブリア=サヴァランが特徴的な懐疑とともに次のように記している。

「教養ある人々がその秘密を探り当てようとし、その種を発見したと思いこんだ。しかし彼らの約束は実現せず、植えても何の収穫もなかった。たぶんこれは結構なことで、トリュフの大きな価値の一つは高価であることであって、もっと安ければこうまで高くは評価されないだろう。
『喜べ友よ』私は言った。『とびきりのレースがとても安く作られるようになるぞ』
『なんてこと』彼女は答えた。『考えても見て、もしも安くなったら、誰がそんなものを身につけるというの?』」(ジャン・アンテルム・ブリア=サヴァラン、1825年)
しかしながら、根強い伝説とは裏腹に、トリュフは栽培できる。1808年にトリュフ栽培の試みは成功しており、フランスでは「トリュフィ・クルチュール(トリュフ栽培製品、trufficulture)」として知られている。人々は昔からトリュフはある種の樹木、特にオークの木の下の根に沿って発生することを観察しており、事実トリュフが宿主樹木と共生して生活していることが科学的に証明された。1808年、南フランスのヴォクリューズ県アプトのジョゼフ・タロン(Joseph Talon)は、トリュフの宿主となることが分かっているオークの木の下から集めたドングリをその根の間に播くことを思いついた。実験は成功し、数年後、新しく育てたオークの木の周囲の土の中にトリュフが発生した。1847年、ヴォクリューズ県カルパントラのオーギュスト・ルソー(Auguste Rousseau)が7ヘクタールにわたってオーク(これもトリュフが発生する木の周りから得たドングリ)を植え、その後大量のトリュフの収穫を得た。彼は1855年のパリ万国博覧会で賞を得た。

これらの試みの成功は、トリュフの生育に必要な暑く乾燥した気候の石灰岩地帯である南フランスに熱狂をもたらした。19世紀の末に、南フランスのぶどう園が侵入害虫のブドウネアブラムシによって壊滅した。別の伝染病のため南フランスのカイコが壊滅したため、桑園も無用になってしまった。こうして、広大な土地がトリュフ栽培のための空き地となった。トリュフを生産する樹木が何千本も植えられ、19世紀の末には生産は数百トンのピークに達した。1890年には750平方キロのトリュフ園があった。

しかし20世紀にはいると、フランスの工業化とそれに伴う郊外への人口の移動により、これらのトリュフ園は放棄されてしまった。第1次世界大戦では従軍した男性の20%以上を失い、これもまたフランスの田園地帯に深刻な打撃を与えた。そのため、トリュフ栽培のノウハウは失われた。さらに、二つの世界大戦の間には、19世紀に植えられたトリュフ園の寿命が尽きてしまった(トリュフを生産する樹木の生活環は平均30年である)。その結果、1945年以降トリュフの生産が急減するとともに価格は急騰し、今日の頂点に至る。1900年にはトリュフは多くの人々に様々な機会に食べられていた。今ではトリュフは金持ち専用の珍味か、特別な場合にのみ食べられるものとなった(昔は安価だったが今では高級品と化してる物として、日本では鯨肉と立場が似ている)。

この30年間に、トリュフの大量生産のための新しい試みが始められた。現在フランスで生産されるトリュフの80%は特別に育てられたトリュフ園で作られる。にもかかわらず、生産は1900年代の頂点にまでは回復してはいない。地方の農家はトリュフの価格を下げる大量生産への回帰に反対している。しかしながら、大量生産の前途は洋々である。世界市場は現在フランスで生産される量の50倍のトリュフを吸収すると見積もられている。現在トリュフを生産する地域はスペイン、スウェーデン、ニュージーランド、オーストラリア、アメリカ(ノースカロライナ州)にある。

野外でトリュフを探すときは、ほとんど常に特別に訓練されたブタかイヌを用いる。ブタはかつてもっともよく使われたが、現代の農家はトリュフを食べてしまわないイヌの方を好む。ブタとイヌのどちらも鋭敏な嗅覚を持っているが、イヌがトリュフの香りについて訓練しなければならないのに対し、メスのブタには全く何の訓練も要らない。これはトリュフに含まれる化合物が原因で、メスブタを強く引きつけるオスのブタの性フェロモンと類似しているためである。


『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
トリュフは栽培できるそうです。発明した方すごいですね。

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